津軽篇・江戸時代/第33話
津軽の牧場 青森市鶴ヶ坂、奥羽本線沿いにある、保食(うけもち)神社は、弘前藩が良馬産出のため開いた牧場「津軽五牧」の一つ「津軽坂の牧場」があった場所です。
寛永15年(1638)、弘前藩3代藩主・津軽信義は家臣に命じ、南部藩領倉内村から牧司・倉内図書を招き津軽坂に牧場を造らせ、牧頭としてその経営にあたらせました。その際、村に馬頭観音を祀った惣染堂(そうぜんどう)を建立し、馬の守護神としたのが始まりとされ、その後、惣染宮、保食神社へと名前を変え、現在に至っています。
津軽坂の牧場の規模は東西2里、南北3里、下付された馬の数は牝馬15頭、牡馬1頭でした。このほか雲谷・滝の沢・入内・枯木平に牧場が開かれていたとされ、雲谷の牧場は、寛永8年(1631)、弘前藩の命を受けた川越源右衛門を牧頭とし、献上馬・進上馬などの名馬養育のため開かせたと、牧場跡の石碑に記されています。この石碑から十和田湖方面へ進むと萱野高原の茶屋が見えてきます。ここのお茶は飲むと長生きするといわれており、川越源右衛門が雲谷の牧場で働かせている牧夫の健康維持のため、畑で採れた雑穀と山で採れたきのこ等を配合し、焙じて飲ませたのが起源とされています。
牧場は天保年間に藩の財政事情のため、閉鎖されてしまいましたが、津軽領産の馬は鷹とともに藩祖・津軽為信の時代から、関白をはじめ、有力諸大名への献上品として珍重されていました。優良馬を産出していた津軽五牧は、弘前藩外交において重要な役割を果たしていたのです。(haru)
〈参考文献〉青森市史第十巻社寺編 保食神社境内由緒書
石碑「靄の牧場について」 長生きの茶由来
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弘前藩の産業振興は、3代藩主・津軽信義、4代藩主・津軽信政の頃に盛んになりました。 内容は主に、良馬の生産、鉱山の開発、津軽新田の開発、津軽塗の確立でした。
1.良馬の生産 青森港開港(寛永元年、1624年)にあたり、博労町の博労達に外ヶ浜一帯での津軽 領産の馬の売買の特権を与えていました。 藩では雲谷(寛永8年、1631年)、津軽坂(現鶴ヶ坂、寛永15年、1638年)、枯木平、 滝の沢、入内の5カ所の牧場(津軽五牧)を開き良馬を産出。特に津軽領産の馬は有力 大名等への献上品になるほどの優良馬を生産していました。領内には数カ所の馬市も 開かれていました。
2.鉱山の開発 河原沢金山、虹貝金山、寒沢銀山、八光沢銀山、尾太(おっぷ)鉱山を開発し、中で も尾太鉱山は17世紀後半は銀山、18世紀前半は銅・鉛鉱山として最盛期を迎え、2300人 から2400人もの作業員が働いていました。
3.津軽新田の開発 地名に「○○新田」と呼ばれた土地がたくさんあり、それらの地域はすべて新田開発 を行った地域といわれています。木造新田もその一つです。特に現在のつがる市一帯は 新田開発のために屏風山に防風林を植林し開発に努めた地域です。 このほか、水害の元凶とされた十三湖の水戸口の付け替えなどの治水事業を行い、多 くの新田が開かれ、弘前藩の表高は4万7千石であったのに対し、3代信義の頃には実高 10万石、4代信政の頃には30万石にも達したといわれています。
4.津軽塗の確立 若狭国小浜(現 福井県小浜市)から塗師・池田源兵衛を招き、小浜で主であった霜降 塗、虫食塗、七子塗の技法が伝えられ、津軽塗もそれらを受け継ぎ現代まで代表的な技法 として伝えられています。
このほか、果実・香辛料・薬用人参・漆・桑・楮・茶の栽培、製紙業にも力を入れていたとさ れています。 弘前市内の城下町であった地域には、職業や製品の材料に由来する地名(大工町、鍛治町、 鷹匠町、茶畑町、楮町等)がたくさん残されています。(haru)
出典:青森県漆器協同組合連合会ホームページ、中泊町ホームページ、津軽三十三寺巡り