津軽篇・安土桃山時代/第17話

横内常福院 青森県青森市横内。国道103号線を山手に進み観光通り横内交差点を超えると、左手に朝日山常福院の看板が見えてきます。横内城は雲谷から青森平野にかけて、なだらかに傾斜する地形を有効利用した砦でした。戦国時代から変わらない地形が現在まで残っており、かつては円形の地形だったため、鏡城とも呼ばれていたそうです。現在でも物見櫓跡や空堀から、城の面影を見ることができます。
 常福院山門を入ってすぐ、二つの名前が刻まれた墓標を見ることができます。天正13年(1585)、津軽統一を図る津軽為信に滅ぼされた横内城3代城主・堤弾正左衛門と、その妻、朝日御前の石塔です。戦いで生き残った朝日御前は、夫や家臣の冥福を祈り、朝日御前常福尼という尼になり、仏門に入ります。
寺の名前は、城主弾正左衛門の妻にして、大浦政信の娘であり、津軽為信の叔母にあたるという常福尼の名前に因んだものです。また、常福尼に限らず、堤家と大浦家との間で縁組が結ばれており、当時の均衡勢力を保つためだったと思われます。
 現在の常福院では、美しく整備された龍神庭をみることができます。誰でも立ち入ることのできる美しい庭園として公開されています。そして、弘前市の五重塔のあることで有名な最勝寺の隠居寺だったそうです。本堂の中には歴史のある仏像があり、台座は平安時代のものであるとされています。
 南部家と津軽家との縁が深く、堤家の菩提寺として建つ寺院。この広大な土地からもその歴史が伝わってくるようです。(芳賀)

〈参考文献〉つがるの夜明け
      青森市史 第十巻 社寺編
      横内村誌



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コラム 酸ヶ湯 薬師神社

 昔、横内村に左衛門四朗というマタギがいました。左衛門四朗は、いつも通り狩りに出ますが、その日は一匹の獲物もなく、知らず知らずのうちに、今まで行ったことのない山奥に入り込んでしまいました。前岳を通り過ぎ、田茂萢岳(たもやちだけ)に差し掛かると、一匹の鹿が現れました。
  左衛門四朗は狙いを定めて矢を放ちます。矢は急所を外れて太ももに当たり、急いで鹿を追いかけますが、その時には日も暮れかけ、鹿を取り逃がしてしまいます。 その4日後、左衛門四朗はその場所に戻り、雪に染まっている鹿の血を追っていくと大きな坂の下に鹿が倒れていました。人の気配を感じた鹿は、負傷したとは思えない勢いで、山奥目指し、一目散に逃げていきました。左衛門四朗は鹿を目がけ、2度矢を放ちますが、鹿の姿はかき消すように見えなくなり、捕えることはできませんでした。 そしてふと、あの鹿はあれほどの傷を受けて、どう癒したのかと不思議に思い、鹿の倒れていた所まで戻ってみると、雪の深い山奥に一坪ばかり雪のない所があります。そこからは香りの強い湯が沸いています。あの鹿は3日間この湯に浸かって深手の傷を癒していたものと理解し、左衛門四朗もそこへ入ってみます。その湯は大変気持ち良く、今までの疲労も病気も一気に癒えた気がしたそうです。
  村に戻り、早速このことを人々に伝えると、たちまち評判の湯となり、湯治をする人が増えたそうです。左衛門四朗は小屋を作って湯治場とし、人々はそこを鹿湯と呼び利用しました。 現在は、酸ヶ湯(すかゆ)と呼ばれる観光地になっています。これは、シとスの発音の間違いから酸性の湯と勘違いされ、酸ヶ湯、と改名されたそうです。 その後左衛門四朗は、祠を造営し、この鹿を祀ります。これが現在の酸ヶ湯の薬師神社であるといわれています。(芳賀)

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